子育ての文化としての野口整体

  • 2019.08.15 Thursday
  • 12:31

野口整体をご存知でしょうか?

 

大正時代に野口晴哉先生が創始したいのちを整える操法で、心と身体からアプローチする操法です。今日、街でみかける整体やカイロプラクティックの元型です。いまでは、自然療法や代替医療として活用される方も多くいらっしゃいます。

 

野口先生は、晩年、整体操法(なかでも愉気と活元運動)をお母さんと子どもに拡げようとされました。

 

なぜ、野口先生は弟子たちに整体操法を教えるのをやめ、お母さんと子どもに教えるようになったのでしょうか。

 

その理由は、もちろん、野口先生に聞いてみないとわからないことですが、当時、日本は戦後に入ってきた欧米文化とともに、日本に土着的にあったいのちを産み育むことの叡智が失われつつありました。

 

そのような状況の中で、子どもの心と身体が丈夫に育つためのさまざまな手法を、お母さんと子どもたちに伝えようとされました。

 

安産のための操法、産褥期をスムースに経過させるための操法、子どもが丈夫に育つための操法、お母さんの不安を軽減させる心理指導など、さまざまな叡智をいのちを産み・育むための文化として体系化されました。

 

実は今日、野口整体の子育て法の確かさを、愛着理論や脳科学などが証明しつつあります。日本という地域に連綿と続いてきたいのちのための文化が、西洋の近代科学によって証明されてきているのです。

 

自然療法や代替医療としての評価はほぼ確立したといってよい野口整体ですが、その最も素晴らしいエッセンスは子育ての操法にあります。

 

その操法のポイントは、「かのようにすべし」といった近代教育のようなあり方ではなく、子どもと親に最もフィットするオリジナルな育て方を自然と自分で構築できるようになっていくところにあります。

 

もちろん、合気道などの武道の練習に型があるように、野口整体にも型があるといえます。その型は何が起こるかわかならい日々の現場で活かすために学ぶものであって、型通りやることを指導者が求めたりまた評価したりするわけではありません。しかし、私たちはつい、型を完璧に習得することばかりを目的としてしまいがちです。

 

野口晴哉先生の嘆きは、ここにありました。

 

型の学びから、個々人のオリジナルの創造へ。

 

野口先生が目指していた野口整体を、現代の日常生活の中で存分に活かしていくためには、西洋の近代科学が発達させてきた関係療法・愛着理論・発達心理学などを同時に用いる必要があることを臨床・研究の結果、発見しました。

 

当相談室では、野口整体を子育てのための操法として再評価し、そのエッセンスを現代の女性・子ども・家族と未来へと引き継いでいくことを目指します。

 

そして、日常生活の中でオリジナルにご活用できることを、総合的にサポートしてまいります。

生命から見はなされつつある現代の女性

  • 2018.07.19 Thursday
  • 16:45

 

「生命から見はなされつつある現代の女性」とは、私が敬愛する平塚らいてうさんが1924年(大正13年)に執筆した原稿のタイトルだ。なんとも、ドキッとさせられるタイトルだ。

 

らいてうさんは、鎌倉の円覚寺で禅の修行をされた時期もあり、霊性についてもよく言及されている。とりわけ、母性と霊性とのつながりを主張されている。

 

いまから94年前に書かれたこの原稿の内容は、2018年現在の女性たちにいまもって響いてくるように思う。いや、いまだからこそ多くの女性たちから共感が得られる内容のようにも思う。

 

(とはいえ、第二派フェミニズムを経てジェンダー教育が浸透した現代社会では批判もあるでしょうが…。しかし、らいてう先生と第二派フェミニズムは根底では同じことを求めているのです。ただ、それが、自己防衛から出ている言葉であるかどうかの違いなのです。)

 

10年前の私が読んだら、どんな感想をもっただろう? 資本主義社会のことは共感できても、母性のことに共感できただろうか?

 

…できなかったかもしれない。そう、私も母性を蔑視とまではいかないまでも、母なるものの負の側面(甘い匂いを漂わせながら大口をぱっくりと開けて吸い寄せて自分の手足にしてしまうグレートマザー)しか経験したことがなかったから。

 

しかし、子どもを産んで、生命の深みを、母なるもののプシケの深みを(ほんの少しでも)知ってしまったいま、私は約100年前に書かれたらいてうさんのこの文章に、魂が震えるほど共感してしまうのだ。

 

ここに、らいてうさんの文章の一部を転載するので、ご興味のある方、ぜひどうぞ。(昔の自分に読ませたいと思って)下線部は私が引きました。

 

 

「現代女性の典型は何といっても職業婦人(ないし労働婦人)でなければならぬ。彼女たちは非人情な資本主義制度の下において、宇宙の大生命と直接通じているその母性を日に日に失いつつある新しい一つの社会奴隷である。しかも職業婦人の数は何といってもふえるばかりだ。どうすることもできない。

 

男性の大部分が彼女たちの生活を支持するだけの経済力を失った以上、彼女たちは何より先に自ら生きていかねばならぬ。またたとえ彼女の父であり、夫である男子にその力があったとしても、現代の女性は自らの収入によって生活することを彼女の自由と独立とのためにその誇りのために望んでいる。こうして彼女たちはみな職業へ職業へ、社会へ社会へと走っていく。

 

外へ外へとばかり向けられた彼女たちの眼は、もう内へ転ぜられることを久しく忘れてしまった。彼女たちはどんな時も自分を反省することをしない。脚下を見ようとしない。だから彼女の生活が外的に立派そうに拡げられればられるほど、内的には貧弱になり、空虚にならざるをえない

 

旧時代の女性が愛するもののうちに彼女の自我を没入することを願い、彼女自身の姿を、その価値を愛する者の上へ見出そうとしたのに反し、現代の女性は彼女の知的、職業的能力を、社会的地位を、名声を、多額な収入を求め、そこに自己を見出そうとしている。

 

旧時代の女性の生活は家庭という小天地に限られながらも彼女たちの心霊は、恋愛と母性を通じて大宇宙の生命である底知れぬ泉に達していた。だから彼女たちの世界は間口こそいかにも狭そうに見えても、内部へはいればはいるほど広大で、豊富で、透明で、純粋で、温情があふれ、いつも沈静で無限の潜在力がある。

 

何故ならそこで彼女はもう個人的存在を超越しているから、彼女は種族であり、神であるから

 

今日の職業婦人は男性からの借りものの知識や、外的多忙のために、その女性としての本来の叡智と心霊とを濁らされ、曇らされ、生命の泉から見はなされようとしている。彼女たちの落ち着かない眼を、粗野な、空虚な、わるはしゃぎした表情を、さもなければいやに固い角立った態度を見よ。彼女の内生活がどれほど空虚であるか、彼女の神経がどれほどいたずらに外に対して緊張し興奮しそして疲労しているかがよくわかる。

 

彼女は一見いかにもしっかりとして強そうに見え、たのもしそうに見える、しかしそれは外側だけのことである。彼女は武装しているのである。去勢の場合があまりに多い。これは私が私の周囲においてこれまで何度となく見せられたことだ。これを母性がもつあの底力と比較したら何という相違であろう。

 

現代女性の悩みの最も大きなものは私がこれまでしばしば言ったとおり、結婚と職業との矛盾、母性的生活と個人的生活(または社会的生活)との衝突でなければならぬ。この根本において相容れない二つの生活に魂を裂かれながら、二重の重荷を負って、疲れ果てた神経はますますかき乱され、ヒステリー傾向に陥るよりほかない婦人の生活は確かに現代が生んだ悲惨の一つである

 

しかもこの二つの生活の調和については、今日多くの努力がそこに傾けられつつあるにかかわらず、また婦人の味方であるとされる男子によって、あるいは心の粗野な婦人によっていかにも容易そうにその可能が論じられてあるにかかわらず、おそらく真に婦人の深い魂の要求を満たしうるがごとき調和解決は永久に望みがたいことであろう。

 

今のままで進むならば、我が国においても、今後女性は資本主義の勝利とともにますます無視され、蹂躙されていくよりほかあるまい。現代の若い女性の一部にみる母性蔑視または嫌悪の思想は、家庭に対する破壊的思想は、婦人に対する資本家の利己的要求と合致するものである。こうして彼女たちは自ら知らずして、否、得意になって資本家に利用せられ、その犠牲とされることであろう

 

彼女たちが自身の内生活のあまりにも空虚なのに気づいた時、彼女たちはもう生命から見はなされているのだ

 

しかし私は現代の女性たちを責めようとは思はない。何故なら彼女たちにかかる道を選ばしたのは、また選ぶことを余儀なくさせたのはむしろ男性と男性社会の婦人に対する態度の長い誤りからきているのだから。

 

今にして母性の価値を女性自身のみならず、男性も社会も悟らないなら、人類はあまりに多くのものを失わねばならないであろう。否、人類そのものの破滅を覚悟するよりほかあるまい

 

今後の婦人運動は母性を破壊するごとき結果を導くものでなく、母性の輝きを生活のあらゆる部面に徹底させるものでなければならぬ。」

 

 

平塚らいてう著作集編集委員会 1983年『平塚らいてう著作集4』pp.46-49(大月書店)

 

魂の情景

  • 2016.08.08 Monday
  • 10:08

 

逗子マリーナの公園の高台から見える景色。小学校の夏休みの宿題では、ここからの景色を毎年のように描いてた。披露山の緑が濃くて、トンビが飛んでいて、空と海が青くて。私はこの景色にはなぜかとても惹かれてきた。

 

いま暮らしている街はこの景色の向こうにある。逗子周辺の緑の濃さは何か独特のものがあって、あまりここと同じ色の緑を見たことがなかったけど、数年前に訪れた三重県の熊野に似てるな〜とぼんやり思ってた。そういえば、この辺りには熊野神社という名前の神社があちこちにある。調べてみたら源頼朝が三重県の熊野三山大明神を勧請したのだという。

 

「逗子で暮らしたい、ここで子育てをしたい」という自分の気持ちを自覚したのは、野口整体の活元運動にプロセスワークを取り入れたアートセラピーをやっているときだった。子どもが生まれてから子どもを育てるのにどんな環境がいいのか、日本各地を探して回り、ついには私の実父の故郷があるこの街に落ち着いた。

 

もうひとつ、大切な夢を見たことがある。産後1年くらい経ち、野口整体の骨盤引き締めをアロマオイルの施術とともに受けていたときのことだ。金色の胎児みたいな魂みたいなものが、無数の金色の鳥のような光に包み込まれて、朝焼けのような天空から地上に向かって飛んでいた。それが私だということは、確実にわかった。精神病水準で見た夢だ。

 

その日の帰り道に、女性活動家の平塚らいてうさんが無性に気になり、家に着いてすぐにらいてうの全集を買い集めた。平塚らいてうといえば、『青鞜』を創った中心メンバーで、婦人参政権の獲得などに尽力した人として学校の歴史で習った憶えがある。だから、彼女の全集に「母性の主張について」とか「むしろ性を礼拝せよ」なんていうタイトルがついていることはけっこう衝撃だった。学校で教えられたイメージとは全然違ったからだ。

 

いま思えば、1990年代当時の学校で教えられたイメージは、マルクス主義フェミニズムのイデオロギーを生きていたある女性教員に与えられたイメージだった。しかし、らいてうの本をよく読んでみると、らいてうはその後今日まで続くマルクス主義フェミニズムに至るような流れとは別の流れで女性解放の活動をしていたことがわかる。

 

らいてうは子どもを産んでから、「らいてうは社会活動をしないで子育てばっかりしている」と周囲の女性活動家たちから批判されたようである。だけどらいてうは、「魂の底から湧き上がってくる不可思議とでも言うよりほかない子供に対する本能の力」とか「母はこの子どもの要求を誰よりもよく知り、この子どもの個性を誰よりもよく解し、この子どもの中に隠れている天分を、その才能を誰よりも間違いなく発見し、それを導き出す霊魂の指導者とならねばならぬ」とか言うなど、命を育てることや命が育つための環境を整えることについて主張していることがわかる。

 

命が育つための環境とは、命を産む女性の環境を整えることを意味する。それは、前近代のように母が男性社会に尽くし続けることを良しとするような価値観ではなくて、女性が精神的に自立することによって、子どもも母も夫も健康で自由な生き方ができることを意味している。

 

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