サル学との再会

  • 2017.06.09 Friday
  • 13:36

 

「家族とは何か」という問いと、山極寿一さんの本との再会。

 

いまは京都大学の総長も務められてる山極寿一さん。ゴリラやサルなど霊長類の研究で素晴らしい発見をされている方だ。

大学生のとき、専門ゼミの初めての個人研究発表で、私は「家族とは何か」「自己とは何か」「女性はどう生きるべきか」というような、3つの問いを提出した。この3つは、私の人生における切実な問いだった。

 

当時の指導教官は私の発表を受けて、冗談交じりに「君はサル学をやったらいい」と言われた。それを聞いた私は、「は?! サル?? なんで??」と、私の問いとサルとのつながりがさっぱりわからず、なんてセンスのない指導教官だくらいに思っていた(ごめんなさい、冗談とはいえ、とってもセンスがありました)。結局、その後の私はレヴィナスの現象学やらを経て、ゴフマンの相互行為論・演技論で卒論を書いた。20世紀から21世紀に移り変わる頃の話だ。

 

とはいえ私は、当時、出版されたばかりの山極寿一さんの『父という余分なものーーサルに探る文明の起源』という本を読んだ。その本では、「父性は人間に必要なのかどうか」という点で山極先生もまだ確実な答えを出されていなかった。まだ浅かった私には、山極先生の研究目的もうまくつかめず、さらにサル学がどうして私の問いとつながるのかがさっぱりわからなくて、その後、再び本を開くことはなかった。ただ、なぜか、幾度かの引っ越しでも、山極先生の本はなんとなく気になって処分できずに、持ち続けていた。

 

あれから20年近く経って。山極先生が2012年に出された『家族進化論』が出たのは知っていた。それでもまだ、かたくなな私は「まあねぇ、でもゴリラやサルだし」などと既存の知識に囚われていた。しかし、世界を一変するような再会はいつも突然訪れる。

 

2012年に書かれたこの本では、山極先生の研究はさらに深められていて、丁寧な観察記録・調査データをもとに、約20万年という時間幅で人間の生態について、農耕と牧畜の開始から国家の成立に至るまでの家族の歴史を考察されていて、感嘆した。もちろん、私の人生の3つの問いのレスポンスとなるような知見も書かれていた。

 

とりわけ、暴力という問題についての知見と、霊長類の父性行動の知見は興味深かった。人間の攻撃性については、狩猟生活によって鍛えられた攻撃本能が戦争につながるような人間の攻撃性を招いた(対して、農耕生活は穏やか)、という説が定着してる向きもあるが、これに異を唱える証拠を出している。要約するとこうだ。

 

狩猟生活は分かち合うこと、相手からの直接な見返りを期待しない分配と交換、権威を抑える仕組みを維持してきた。農耕と牧畜は専門家を登場させ、分業が生まれ、共同体の境界を発達させてきた。さらに、人間の祖先は進化史の大部分を狩る側ではなく狩られる側で過ごし、その社会性を大切な仲間を守るための「防衛」として発達させてきた。共感と同情に満ちた人間の行為は、その所産である。

 

共感と同情に満ちたコミュニケーションを拡大するために、人間は「言葉」をもったと考えられるが、言葉は相手の感情を大きく揺り動かしてしまうことがある。これが、残念なことに、信頼の代わりに権力やたくらみを付与してしまい、嫌悪や敵意、疑いや不安を増幅させてしまうこともある。これが国家の戦略として使われたとき、大きな戦いに発展する、と。

 

私たちは、自分の大切な何かを「防衛」しようとして、他者に対して攻撃的になるんだな。だとすれば、攻撃によってではなく何かを守ることは、どうしたらできるのだろう? って、簡単に問いにできないくらい、複雑な問題だ。なぜなら、攻撃している当人には、それは「攻撃」ではなく何かを守るための行動なのだから。例えば出産後の女性のガルガル期も、赤ん坊を守るための行動だ。

 

父性行動についても、とても興味深い考察をされている。ゴリラ、サル、タマリン等々でバリエーションはあるものの、子どもの離乳後に、オスが子育てに積極的にかかわり、そういうオスをメスが受け入れることが、子育てにかかわるオスやその集団全体を生き延びさせる結果につながる、という。母子だけに限定されていたような向社会的な行動、共感力に富み、見返りを求めずに支援の手を差し伸べる行動が、オスや年長の子どもたち、母以外のメスたちの間に広がってきたことで、人間を生き延びさせてきた、と要約できる。

 

いやぁ、サル学(霊長類学)面白い!!

 

あと最近読みたいのは、エマニュエル・トッドさん。トッドは、世界中にたまたまそのように分布したという家族形態から、社会、心、政治、イデオロギーのありようを考えている珍しい方だ。私たちの価値観をつくる家族をアプリオリなものとみなす。そうなのだ、私たちのものの見方って、たまたま生まれた家族の中で身につけていて、それはけっこう根が深いものなのだ。

 

家族が違えば、カルチャーも違う。そんな個人と個人が、出会って結婚して家族をつくるっていうのは統合とか救済とかいう話で。そこで起こるすべてのことには、意識でどうこうできる水準を超えた、人類の進化の秘密もあるような気がしてならない私です。

 

私を女性相談の道に招き入れた須藤先生のこと

  • 2017.01.05 Thursday
  • 13:25

 

私に寿町を教えてくれた、須藤先生のこと。

 

横浜の寿町で長年ソーシャルワーカーをしていた、須藤さんという女性がいる。福祉事務所で働いていて、その経歴の全貌は知らないのだけど、母子寮やDVセンターや女性相談の仕事もされていた。私が須藤先生に出会ったときには、愛知県立大学の教授をされていた。

 

ある休日に人気のない院生室に行ったときだ。研究室の電話が鳴った。須藤先生だった。私への電話だった。「今度、名古屋市にDVセンターを創るから、そのための研究会の事務局をやらない?」という話だった。須藤先生とは、その数ヶ月前に、ほんの五分ほど話をして、名刺交換しただけの仲だった。女性支援に興味のあった私は、飛びあがりそうになりながら「やります」と返事をした。

 

当時の私は、研究に行き詰まっていた。多言語に堪能とか、計量分析が得意とか、そういう特技が私にはなかったことや、当時の社会学界と大学院制度の流れが変わりつつあったことなども、先の見えぬ不安を駆り立てた。それに、社会学は経験学とも言われる。まだ若くて経験の浅い私に書ける論文など、何があるのかと、本気で悩んでいたのだ。

 

そんな私に、須藤先生は間主観性という概念のことや、ピエール・ブルデューの実践感覚のことなどを聞いてきた。「もっと知りたい」と、わくわくしているようだった。大学生の頃から、間主観性という概念ばかりを追いかけて、でも、社会学界の多数派の見解からは「それを社会科学でどう証明するのだ?」と問いかけられ、迷いの最中にいた私に、「やっぱり間主観性を大事にしたい」という気持ちを新たにさせてくれた。

 

須藤先生の『ソーシャルワークの作業場』という本は、寿町で暮らす人たちのことを書いた本だ。「三日だけ生きたい男」とか「美しい部屋」とか「寿アルク」などのタイトルが並んでいた。生と死の境目にこれだけ深く携わっているのに、命が生まれ死にゆくという自然なことを、できる限りの手を尽くしながらもありのままに受けるというか、ちょっとうまい表現がまだ見つからないのだけど、人の人生を俯瞰して、物思いし、待つ、というようなシャーマンにも似た、そういう感覚や態度に触れたのは初めてだった。

 

DVセンターの会議のときに、当時の仕組みだと被害者の母子は別々の施設で過ごすこともあったのだが、「母子は一緒じゃなきゃいけない」という、DV支援を現場で長年やってる専門家の意見に深く頷いていたことを覚えている。当時の私はその意味がわからなかった。「相談って仕事は専門職なの」ということも、主張されていた。その意味も、当時の私にはわからなかった。

 

私の父が癌で他界し悲しみに暮れているとき、「大阪大学の西村さんの研究会でそのことを話さない?」と持ちかけてくれた。私は父の闘病生活のことを、須藤先生にほとんど話してはいなかった。私は確かに、父の看取りについて話す場を求めていた。須藤先生はそのことを知っていたのだ。

 

私は父を自宅で看取った。父の希望でもあった。ただ、自宅で看取ることは、人が病院で死ぬことを自明視していた家族や親族には理解しがたいことだった。そういう、周囲の不安を和らげ、当事者の父の思いを尊重し、病院の先生やターミナルケアの看護師たちと連携し、父が最期を過ごす環境を整えることに私は奔走した。家族に見守られながら、父は安らかに家で息を引き取った。

 

報告原稿は現象学的に記述したつもりではあったが、「あまりにも主観的になってしまったかもしれない」と私は須藤先生に相談した。そうしたら、「主観的でいいのです」と、須藤先生は言った。客観的な記述が求められる社会科学の中にいた当時の私には、まだその意味がよくわからなかった。

 

私は須藤先生に、ときどき手紙を書いた。当時の私はコラージュにはまっていて、須藤先生の手紙にも色とりどりの紙や布を使ってコラージュを施した。須藤先生は、郵便はがきに万年筆で書いた返事をくれた。「翁川さんがくれた手紙は机の前に貼ってあるの」とか、たくさんの、厚みと深さをもった言葉をくれた。

 

「今度は横浜で会いましょう」と、私が名古屋を去るときに約束して、その約束が叶ったのは数年経ってからの、去年のことだった。須藤先生との約束は、私に待つ時間を楽しみにさせてくれるもので、いつもその時は必ず来た。

 

須藤先生は、自己価値をもった女性だった。成熟した大人の姿があるとしたら、こういう人のことをいうのではないかと思った。須藤先生の言葉や感覚は、私の身体の隅々に残っている。

 

その、須藤先生と同じ、相談の道に、私もかかわることになろうとは、あのときは思いもしなかった。人生というのは、ほんとうに面白いと、やっとわかる年頃になってきた。苦しみや葛藤がいつか宝物に変わる、そのための錬金術はあると、最近、本気で思えるようになった。

 

今年の始まりはお天気も良くて、景色が美しかった。小坪のみかん投げも20年以上振りに参加。懐かしい景色を、新しい気持ちで見るのはなんだか新鮮だった!

 

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