出産とパラダイム転換(2)ーー母性をめぐる対立を超えて

  • 2016.10.07 Friday
  • 14:10

 

まぁ、そんなこんなで、私の産後はなかなかたいへんだったけど、それでも、子どもを産んでほんとうによかったと思ってる。私は初めて、こういう幸せを経験した。子どもの寝顔を見てるときの愛おしさといったら、言葉では表現できないくらいだ。そして、自分の人生を生きられるようになった。生きてることが楽しいと思えるようになった。ただ、さっきも言ったように、現代社会ではこの通過儀礼をスムーズにやり過ごすノウハウがほとんどなくなってるから、ご縁のあるシャーマン的な人たちのつながりに助けてもらいながら通過するとよいように思う。そういうご縁は、自分の「自覚」さえあれば、ありがたいことに意図せずともやってきたりする。

 

昔々、雑草のように生えていたものを、もう一度、大切なものとして認識し、積み上げて、創っていきたいと思っている。命を育むということを中心とした社会へ。自分を大事にすることで、多様な他者を大事にする社会へ。命の母たる女性の目線から創られる社会へ。未来から来た大人である子どもたちが、指し示してくれるものを感じ取りながら進みたい。

 

平塚らいてうさんは、こんなことを言ってる。「わたくし自身も、その昔、子どもをもたなかったころは、まったく母性というものに目覚めず、この世の中の多くの母と呼ばれる女たちが、また母性愛というものが、尊いもの、ありがたいものと思われるどころか、むしろ、愚かしいもののひとつとさえ思われ、自分が子どもなど産んで、そうした母になろうなどとは考えてみたことがなかったばかりか、自分の個性を自由に伸ばし、自分の仕事に思う存分、生き抜こうと願うわたくしにとっては、これは、同時に何よりもおそろしく、最後まで忌避していた」と。その後、子どもを産み育てることを経て、若き日の自分と同じような気持ちの女性たちに出会うと、「恋愛をなさい、結婚をなさい、子どもをお産みなさい、お母さんにおなりなさい、そうしたうえで、その母心から、母の生活体験をとおして社会に働きかけてくださいと、心から願わずにはいられません」と。

 

こういう話は、らいてうの主張の文脈を読み違えると、それこそ対立を生む。もっとも、文脈読み違えの対立は、平塚らいてうさんの時代から母性論争として与謝野晶子らとの間で繰り広げられてきて、マルクス主義フェミニズムが支持された流れとともにもはや受け入れがたい空気が今日の日本社会にある。「三歳までは神の裡」という古来からの命の育て方は「三歳児神話」として否定され、早い段階での母子分離や自立が推奨されている空気がある。こうした空気は、母性イデオロギーが国家に奉仕させられ、昭和十五年戦争に加担したという痛ましい歴史への批判に由来している。

 

間違いなく、この戦争の歴史は忘れてはならない。私はマルクス主義フェミニズムに多くのことを学んだし、それを提唱した人たちの生き方に触れ心が震えた経験もある。だけど、ずっと、腑に落ちなかったことがあった。「母性」はほんとうに悪者なのだろうか? そうではなくて、真の問題は、母親たちが「イデオロギー」によって生かされていたことではないか? 真の問題は、母親たちが精神的に自立した存在として生きれなかったことではないか? ここを読み間違えて、母性を尊重することがそのまま国家や父権を支持する態度に結びつくとベタに考えてはならないだろう。ベタに考えてしまうのは、「解離」があるからこそだ。その解離こそが、現代日本社会に生きにくさが蔓延しているひとつの理由ではないか? 命を育もうとする本能(それを社会は母性と呼ぶ)が悪者なのではない。東日本大震災を経て日本でもやっと、らいてうさんの主張を受け入れる土壌が整いつつあるように思う。

 

『チェルノブイリは女たちを変えた』という本の中で、クラウディア・フォン・ヴェールホーフは、現代社会に根付く母親への批判に対し疑義を呈している。「母親たちはちっともフェミニズム運動に協力しない。彼女たちは「女としての自己のために」力を傾けるのではなく、この期に及んでなお「他者のために」尽くしている、と。私はこうした議論をもうずっと前から知っているし、ここでいう「他者」が男性であるとき、その議論の意味するところも心得ているつもりである。こんなふうに、いつのまにか子どもと男性が同一視されるようになってしまったわけだが、私は自分で長く母親をやっていればいるほど、また母親になったその日からたえず学び、感情体験を重ねれば重ねるほど、そういう考え方を受け入れられなくなっている。だからまさしくチェルノブイリこそは、私にとって母親と非‐母親、「保守的な主婦」と「現代的な働く女性」というかつての女たちの「核分裂」を、あらためて見据えるよいきっかけになったのである。私たちはこの上さらに、いわゆる「現代的」「女性解放」「男女同権」、そして進歩という路線を、今度のチェルノブイリの一件にもかかわらず、なお推し進めていこうというのだろうか?……子どもの問題がさまざまな運動、非‐運動の中でかくも犯罪的なまでにないがしろにされているのは何を意味するのだろうか?」と。

 

らいてうもまた、「命」について、「命」の育まれる環境を整えることについて述べている。「命」が育まれる環境とは、生まれたばかりの「命」の世話をする女性たちの「命」と環境を整えることをも意味する。女性を、女性の価値観を徹底的に尊重することを主張しているのだ。らいてうの言う女性の自立とは、経済的自立を指すのではなくて、精神的自立を指す。精神的自立とは、女性が誰のまなざしによるのでもなく、自分のプシケを生きることを意味する。自分のプシケを生きることを、男性たちに伝え交渉する力を意味する。そのことによって、子どものプシケを尊重し育む環境を用意すること、それを社会に働きかけていくことを、述べているのだ。

 

コメント
コメントする








    

calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< November 2018 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM