未来から来た子どもを産む

  • 2017.01.23 Monday
  • 13:32

 

私の出産、おそれを手放す、という初めての経験。

 

子どもを産むってことは、私にとって未知すぎる経験だった。産んでからは、未知に加えて、自分のよく知った過去と向き合う経験だった。

 

子どもをお腹に宿したとき、喜びとともに、実は、おそれもあった。ちゃんと産めるのか?無事に生まれてくるのか? 何か病気などありはしまいか? 私は自分の子を愛せるのか? 可愛いと思えるのか? 私は高齢出産だったから、羊水検査なんてのが情報として与えられ、頭をかすめたこともあった。数え上げたらキリがないくらいのおそれがあった。命を宿すと同時に、これまでの自分の生き方と主張をとことんまで掘り下げられ、真を問われるような経験をした。

 

あらゆるおそれのすべてをひとつの残りもなく手放せたのは、陣痛が始まったときだったように思う。私の意思とは関係なく、私を突き上げるように起こる陣痛の波に、もうすべてを委ねるしかなかった。大きな波が来るたびに、命を感じた。この子は自分で生まれようとしていると、思った。そして、私もこうやって、生まれてきたのだと知った。

 

自分の力の及ばないものごと、自分ではコントロールできないものごとがあるということ。それは一見とてもおそろしい。忘れがちだが、親密な関係にある他者もそうだ。自分とは違う自律したひとつの命はつねに、私の期待通りにはならないし、コントロールもできない。おそろしいからこそコントロールしたくなる。それが欲望の源泉だ。自分の力の及ばないものに対する敬虔さは、もっていたいと思う。その態度の先に、コントロールできないことを認め、受け入れることを通じて、おそれを手放すことができる。おそろしいものとは別の見え方をしてくる。それは時に、神秘的にも映るだろう。親密であるが不可知でもある、そんな他者なしには生きていけいない私たちの人生は思うよりも、ジョーゼフ・キャンベルが言うように「神話的」であるし、カール・グスタフ・ユングが言うように「元型的」でもある。

 

息子が生まれてからは、自分のあらゆる過去から生じる感情、言い換えれば、自分のおそれから生じる欲望、それを手放すという言葉で表現しうるような日々が続いた。何度、繰り返したことか。そうして三年が経って、命が生きるために、はつらつと生き抜くために、全生をまっとうするために、私がやりたいことできることも明確になってきた。

 

子どもは、未来を生きる存在。子どものためにと、未来の社会が変わることを願い、それを誰かがやってくれるのを待っていていいのか。「いつか」変わるではなく「いま、ここ」から変わらなければ間に合わない。子どもにとっての「いま、ここ」は親に他ならない。親から変わらないと、子どもの未来は変わらない。子どもは自分が生きるために何が必要なのかを知っている。大人はそれを察知できるように変わる。子どもは大人にしっかりと守られる必要がある。大人は守れるように変わる。過去に生きる大人と、未来を生きる子どもが、「いま、ここ」で出会う。

 

書いていて気づいたが、これは私が子どもの頃、親や大人に対してもっていた気持ちでもある。「どうしてわかってくれないの?」と、叫んでいた気がする。いま、親になって、あのときの自分の気持ちは間違っていなかったと思える。いろんな事情で、子どもの気持ちは汲まれないことがある。時代や社会や環境や遺伝や運や、いろいろな事情が組み合わさっている。ただし、そのすべてが個性になる。苦しみの種が、美しい花を咲かせる日は、きっと来る。

 

人生は思いもしなかったことが、起こることがある。そういう神秘的な、共時的なものごと。そういうものに、自分の人生は確実に影響を受けているという事実。それを深く心身で実感することによって、私は自由で自律的になれるという、パラドキシカルなこと。例えば、痛みが力に、支配が自律に反転する、そういう錬金術のようなものがあるってこと。中世の賢者や魔術師たちの身体感覚のようなものは、脈々と、私たちの中にあり続けているってこと。

 

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